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Tokyo in New York

自己認識への努力

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 日本人の現代美術の問題は、西洋においてそのすべてが往々にして誤解されているという点である。我々自身の自己中心的な見方と同様に、ローランド・バースなど、悪意はないものの、曲解に満ちたヨーロッパの「ネオ・オリエンタリズム」がこの誤解の原因となっている。
 アメリカの大衆文化への傾倒とそれを自己流にアレンジする日本人の驚くべき能力は良く知られているが、このために日本人は模倣者という不当な批判を受けている。もっと正確に言えば、日本人は物事を鋭敏に察知することで芸術上の努力を成功に導く人種であると、評価されているのである。
 我々は日本の芸術家をただ単に我々の文化の表層面を真似ているに過ぎないと考え、250年間の鎖国を解いた1868年の明治維新以降近代化が絶え間なく続き、その習慣が身体に滲み付いたお陰で、彼らが今なしている事も我々の文化の最も目立つ特徴を吸収しているだけであると考えている。しかし、これは我々の自惚れである。
 また、日本人の批評家と美術史家の中にも人によってはその傾向があるが、日本の文化を明治維新前とその後に分けて捉える傾向がある。これも正確ではない。なぜかと言えば、墨絵や書道は、永続的な文化がいつもそうであるように、近代化と平行して進化を持続させ、現在でも文化の主流の一翼を担っているからである。
 従って、日本人は芸術の専有を地球上のどの人種よりも巧みに実践すると同時に、貪欲に他の文化を吸収して常に自分独自の文化に作り直してきたと言える。逆説的に言えば、派手なコスチュームで声を張り上げて歌い踊る日本人のロックバンドのように、「アメリカ人」よりもアメリカ的という現象をたびたび生じることにもなるのである。
 この「作用の集中」は現代の視覚芸術にもはっき現れており、ソーホーのブロードウエイ578で開催される「日本の現代美術展」の芸術家にもその傾向が見られるのである。
 この展示会はウエストウッド・プロジェクト(主に国際的なアーティストを扱う目的でウエストウッド・ギャラリーが設立した部門で、現在は全国的に展示会活動を展開している)が、アルク(Associated Liberal Creators アーティストの森 事務局)との共同で開催する。アルクは東京をベースに美術活動を行っており、特にニューヨークでの出展の機会を日本のアーティストに与えることを一目的に活動している。
 ほとんどの新進アーティストは人口密度の高い日本では好機に恵まれず、彼らにとってニューヨークは名声と幸運を掴むことを夢見ることが出来る格好の地である。今回の展示会には様々な背景を持つ多くのアーティストから多数 応募作品が寄せられ、Westwood Gallery またアルクはその中から現代日本のスタイルと傾向の多様性を代表する作家20人を選出した。
 ウエストウッド・プロジェクトは、今回の展示会の趣旨に照らし、いつもとは違う対応を取っている。通常の共同開催であれば決められた小間を使用するが、今回は破格の5000フートのスペースを確保し、異文化比較という共通目的に対する積極的な取組み姿勢を見せている。これまでニューヨークのギャラリーでは見られなかった事である。
 今回の作品の中で前述した「作用の集中」を最も顕著に表現しているのは恐らくナカムラ・テツゴであろう。彼の絵は、刺激的で派手なポスト・ポップの形象を一定の動作的抽象性の領域に押し込めたものである。絵の構成の中で支配的存在はケロッグコンーンフレッグの箱から取ったトニー・タイガーの漫画キャラクターである。キュービズム風に砕けた領域一面を、足元にスプレイをかける風変わりな手法で、鮮やかなタッチと赤い主色で描いている。ケロッグ・ロゴの破片、牛のエリーズとその伴侶であるエルマーの頭の部分、優雅な日本語文字、さらには突出したバーコードを -これは明らかに芸術の商業化を皮肉った表現である- 画家特有の擦る手法で処理している。
 アメリカのポップ・アーティストが、宣伝広告と商業デザインに見られるな滑らかで屈曲のない表面をくっきりした輪郭で描く場合には、抽象表現の持つ昔風の「ロマンチック」な傾向を避けた。しかし、ナカムラは二つの相反する流儀の要素を組み合わせる。これは彼が、芸術的動きの相互連続を助長するようなエディプス的相反を排除して、遠くからノスタルジックな作用を観察することができるからである。
 ナカムラのその他の作品には、かわいらしいロバのキャラクターも使われている。これは日本の文化の中に溶け込んでいて、子供同様に大人にも好かれているキャラクターである。働き過ぎの「サラリーマン」が好むフェティッシュな雑誌に見られるような制服姿の思春期のロリータに似て、これらのキュートなキャラクターは、幼年時代の楽しい喜びを思い出させて、日常の苦悩に対する慰みを与えてくれる。日本の企業が好んで使うロゴである。従って、ナカムラ・テツゴのようなアーティストの作品に現れるこのような人畜無害のシンボルは、複雑な社会における意味を含んでいると理解しなくてはならない。
 東京生まれのチバ・ヒロジの「紙の造形」を見ると、アイザック・ニュートンの万有力学が思い浮かぶ。チバ・ヒロジは明らかに折り紙の影響を受けているが、彼の表現ははるかに複雑で、個性的で、かつ現代的である。
 チバの枯葉はだまし絵のように念入りに仕上げられている。しかし、これらの枯葉があちこちに剥がれてコンピュータの内部や機械の一部が露見し、さながら世界はその最も小さな要素に至るまで巨大な時計とその部品のようなものであるというニュートンの理論を象徴しているかのようである。
 チバが「愛と平和」と呼ぶ作品には、中央部に肉体を離れた美しい白い翼が描かれ、新聞の切り抜きとのコラージュを形成している。物理的世界のみならず人間のすべての活動と野心があらかじめ機械的に決定付けられているという結論を超越しようとする試みがなされているのかもしれない。
 この作品には、さながら虹色の成層圏を優美に飛んでいた鳥が急に減速し、羽根が落ちそうになった白い翼、ロボットの鳥の骨が折れたように突き出た機械装置の一部が描かれている。人によっては羽根をもぎ取られた天使を想像するかもしれない。この作品は特に辛らつである。

 これとは対照的に、テラサワ・タクヤの作品は細密なアクリル画で、宇宙のエネルギーが調和をもって描かれている。自然のすべての要素が渦巻くような有機的リズムで統一され、複雑に織り合わされたような生き生きとした色使いと、タントラ調またはサイケデリックと言うべきデザインが特徴的である。ある作品では中国カレンダーの表象を思わせる様式化された動物が巨大な樹木の枝を生き生きと飾り、異なるタッチと色使いで描かれた空の赤々と燃えるような色に対して樹木が仰ぎ見るような角度で伸びている。
 もうひとつの作品でテラサワは、自然の神秘的な力を表現したいという構成意図の下に、赤々と燃える太陽、急降下する鳥、リズムよく動く波の上で跳ねる魚の群れを描いている。その技法と比較できるのは、唯一偉大な変わり者と言うべきアメリカ人、チャールズ・バーチフィールド自身のダイナミックな水彩手法のみである。
 自然に対する見方はアーティストによって面白いほど異なっているが、チバ・ヒロジとテラサワ・タクヤは非凡な才能と言うべきで、現在人気を博している誰のスタイルや傾向にもまったく依存していない。両者とも純粋に芸術上の歴史的先例には関係していない。共に自身の創造力を追求し、その大胆とも言える姿勢はどのような国においても新鮮さを与えるであろう。
 一方で、その不可解さ故に興味を感じるアーティストはアオキ・ジュンイチである。丸い形が群れる彼の抽象画は豊かに色づけされたオリーブか眼球を連想させ、他の抽象画と比較しても不可思議な暗示力を持つ。 アオキの構図は、1970年代末にイースト・ビレッジで湧き上がった「バッド・ペインティング」(Bad Painting)や「ニュー・イメージ」(New Image)の運動と同じ手法で、人間の知覚力を揶揄したものである。アオキは、「技巧」と「才能」を超越し、温和でやさしい世代の古風な基準はもはや当てはまらないと確信しているかのようである。
 見せ掛けの抽象性はさて置き、アオキの形式は漫画から得られたように思える。しかし、それは、日本の「ポップ&ヒップ・アップ」から派生し、現在アメリカのプレスやマスメディアで最も注目を集めている「スーパフラット」(Superflat)の方法とまったく同じとは言えない。むしろアオキの絵は、酸性色を散らしたり垂らしたりする手法から見れば、「新印象派」(Neo-impressionism)を意図的にパロディ化したもののようであり、激しい筆使いは陰に隠れた多くの奇怪な存在を描こうとしたのかもしれない。
 ドナルド・ベクラー(Donald Baechler)やクリストファー・ウールのように、アオキ・ジュンイチは、故意に粗雑で見え透いたがさつさを標榜するアーティストの一人である。このようなアーティストの作品は、断固として取り入ることを拒否しているにもかかわらず、見る者を不思議と屈服させるものがある。実際に、その種の厚かましさが故に、アオキの次の作品を期待するようになるのである。
 この展示会のアーティストの多くは模倣とはほど遠い存在であり、日本の芸術がどのようなものであるかの西洋の紋切り型の理解にまさに挑戦していると言える。中にはアメリカの大衆文化に明らかに傾倒しているアーティストもいるが、木版画のシモ・ユキコ、水墨画のワクイ・ヨウイチ、陶芸家のタナカ・タケシなど、他のアーティストは日本の伝統的な手法を現代の感覚に完全にマッチした新しく生き生きとしたものに進化させている。
 西洋人の日本芸術の理解は紋切り型に陥っている。これは、ニューヨーク市のジャパン・ソサエティーのアレキサンダー・マンローがかつて言ったように、また日本の知的な作家であったカラタニ・コージンのフレーズを繰り返えせば、「西洋は、現代日本に実績をもたらした固有の力と知的な論理性を無視している」からである。
 今回の展示会は新進気鋭のアーティストを中心に構成されている。彼らはあらたなそしてより確かな自己認識に努力しているアーティストであり、見る者を啓発する魅力的な展示会となるであろう。少なくとも紋切り型の理解に終止符を打つことは期待できる。

Ed McCormack
(訳:アーティストの森 事務局)

GALLERY&STUDIO
( 2002年 6/7/8月号 )
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